フィリピン式ホームパーティー

おもてなしの心は日本の専売特許ではない理由

フィリピン人の家内と結婚して色々と文化の違いなどで
驚かされることがあるが、中でもホスピタリティーに関しては
フィリピン人は世界でも群を抜いているのではないだろうか?

ホームパーティーなどではその傾向が顕著に表れるとわたしは思う。

例えば、日本人は自分の誕生日に何か自宅でお祝いなどをしようとする時は
自分以外の人が色々と準備をすると思うが、フィリピン人は逆なのである。

自分の誕生日は、自分が料理などいろいろと準備をし、仲間や知り合いを
よんでもてなす。

と、こんな感じなのだ。だから、

一緒に住んでいる家族も手伝う。

家内や、娘が誕生日の時などは前日から大量の料理を作り、
友人知人を呼び祝う。

昨日は結婚記念日の前夜祭

昨日は結婚記念日の前夜という事もあって、普段だと
家内がフィリピン料理を振る舞うのだが、今回は私が
主に日本料理を作った。

高価な商材は買っていないが、今まで家内に食べさせていない
料理もつくった。

きゅうりと春雨のサラダ、もろきゅう、こんにゃくときのこの和え物、
炊き込みご飯、焼きそば、ゴーヤーチャンプルー、フレンチフライ。

約5時間で7品目を私一人で作った。いやはや、大変であったが
何とか完成にこぎつけた。途中キッチンで出汁の素が見つからず、
買い出しに行くというハプニングもあったが・・・

料理は家内と娘に好評で私も大いに満足だった。

特に炊き込みご飯は、私も初めて作ってみたので、出来上がりに
少し不安があったが、事前に何回かYouTubeで作り方を
確認してあったので、順序良く作ることができた。

世の中インターネットができ、本当に便利になったものだ。
YouTubeをこんな感じで、レシピ動画として使っている人は
かなりいるだろう。

私だけではないはずだ。

 

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来年は次女の卒業式

家内と娘はもう何年もフィリピンに帰っていない。

義理の両親もだんだんと高齢になってきた。次女も
来年は大学の卒業を控えている。

という事で、来年はみんなでフィリピンに
帰省しようという事になっている。

次女は現在、卒業後の進路についていろいろ
考えているようだ。

最近、フィリピンでは国内の仕事も増えてきたという事で、
海外に働きに出なくても良さそうではあるが、
次女としてはアメリカで働きたくもあるらしい。

フィリピンでは第二公用語が英語であるため、多くの人は
海外で働くことに対して、あまり抵抗がない。

テレビ番組は半分が英語だし、新聞は英語、役所の書類は
全て英語、・・・

日本もここまで英語を徹底して教えれば、多くの人が
英語を話すことができるようになるのだろう。

人生の再出発

生活保護の問題

私は、双極性障害になって財産と呼ばれるものは全て
失ってしまったわけだが、病院を退院し、新たな妻とも結婚し、
新しい家族もできた。

ここまで来るのには、長い時間がかかったが、致し方ないだろう。

現在は、物流業界でトラックドライバーとして働いている。

初めて精神病院に入院した時はケースワーカーに、
生活保護も勧められたが、断固として普通の生活を選んだ。

理由は

「生活保護をもらう理由が自分にない」

からだ。
世間では生活保護の不正受給問題が度々さけばれれている。

私としては、体に何か不自由な部分があるわけではない。
ただ、一時的にテンションが上がりすぎたりするだけだ。

五体は満足である。働けないわけではない。

まして、子供たちに良い影響があるはずがないではないだろうか?
親が働いていないとなると子供は自信をもって生活できないだろう。

 

チラシ配りからの再出発

私は、以前書いた通り、双極性障害になって精神病院に入院し、
退院後は、ファストフード店のチラシ配りから人生を再スタートさせた。

人生は何度失敗しても、やり直せるというのが私の持論だ。遅すぎると
いう事はない。

チラシ配りから再スタートして、何種類かのアルバイトを経験し、
契約社員も経験し、現在では正社員である。

頑張っていれば、何とかなるものなのである。

人生頑張る前からあーだ、こーだと理屈をこね、できない理由ばかりを
探している人が非常に多い様に私は感じる。

これは、障がい者、健常者関係なく見受けられる。

 

病院の言う事を鵜呑みにするな

私は、精神病院のケースワーカーの勧めで、
生活保護を受けなくて本当に良かったと思っている。

もしあの時、生活保護を受給していたら、今の生活は
絶対にありえないだろう。

多分、今でも生活保護をもらいながら、ただただ漫然と
時間という限りある財産を浪費していたに違いない。

そんな生活は嫌だったし、まして私は負けん気が強かった。
そして、生活を向上させたいという欲もあった。

贅沢とは少し違うと思うが、もっと美味しいものが食べたかったし、
旅行もしたかった。

生活保護ではかなわないだろう。

 

3回の海外旅行

生活保護をもらっていてはできなかったことに、
海外旅行がある。

私は双極性障害になって以降3回フィリピンに旅行している。
しかも、2回はアルバイト時代である。

実は家内と結婚するためにフィリピンに行ったのだが、
いやはや、やはりというか、軽いカルチャーショックを受けて
帰ってきた。もちろん良い意味で。

とにかく、家内もそうであるが、みんなが明るく元気なのだ。

決して裕福な国ではないというのはわかっていたが、
これでもかというくらいに明るい。

家内との出会いに感謝した瞬間である。

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よき理解者を持って感じた事

愛する家内が最大の理解者

私には現在、フィリピン人の家内がいる。前妻といろいろあり
離婚し、少々投げやりな人生を送っていた頃、今の家内と出会った。

出会ってすぐに、二人は恋に落ちたわけだが、双極性障害になって投げやりに
なっていた自分に当時の家内は、自分を大切にするよう
口を酸っぱくして言っていた。

 

双極性障害という病気は症状が出なければ、ごく普通の健常者となんら
かわらない。

この事を含め当時の家内は、よく理解してくれていた。

それから約2年たって、私たちは結婚した。

お互い再婚同士という事もあって、反対する意見もあったが、
二人はめでたくフィリピンんで結婚式を挙げた。

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理解者の大切さ

今の家内と結婚して、もう10年以上になる。

些細なことでけんかしたこともあるし、私の双極性障害の病気の
症状で家内に迷惑をかけたこともある。

だがしかし、10年である。

私たちは、健常者の夫婦と何ら変わらない生活と
ささやかな幸せを送っている。

正に家内のおかげである。

私としてみれば、双極性障害になって、前妻と離婚し
また新たに結婚できるとは考えられなかった。

双極性障害にとって、きちんと薬を飲むことや、
規則正しい生活をするのはもちろん大切だが、
自分を心から理解し、愛してくれる人がいるだけで
相当良い影響があると思う。

 

失ったもの

私が双極性障害になって失ったものと言えば、計り知れない。

信用、友人、仕事、家族、財産。

 

お金で再び取り戻せる物なら良いが、信用や家族や友人などは
また、一からである。

今までだと、何か悩みがあれば友人に相談できたことでも、
自分が精神的な病であることなど、新たにできた健常者の
友人には相談できない。

 

自分が強くあるべき

双極性障害というのはある意味、自分の弱さからくる病気
なのではないかと思っている。

双極性障害になってしまうと、理解してくれる相談者も
なかなかいない中では、自分を強く持ってしっかり生きていくしか
ないと思う。

もう以前のように何でも話せる友人や、知人などいないのだから。

私はたまたま、再婚できよき理解者を得られたが、それでも
家内は外国人であるため、言葉の細かなニュアンスが
伝わらなかったりする。

生活支援センターなどで知り合いができたりするが、彼らもまた
病気と闘っている身であるため中々余裕がない。

やはり、結局は自分を強くしていくしかないのではないかと思っている。

 

大きな山であるが、乗り越えた時には自分が一歩も二歩も
成長していることに気付くはずである。

 

双極性障害になっても寛解をめざし

寛解(かんかい)するという事

寛解:完治とまでは言えないけれども、病状が治まっておだやかな状態にある事。
と、検索すると出てくる。

ある日を境に、寛解することはありえない。私の場合、まるで幾重にもある薄皮が
めくれるように症状が改善してきた。

その度合いも、一歩進んで二歩下がり、翌週にはまた一歩半進むというような
感じで一進一退を繰り返すような感じだ。

おおむね私の場合、10年がかりで寛解ではないかという所まで来たわけだが、
予断は許さないと肝に銘じている。

 

だがしかし、双極性障害の症状を恐れ、やりたいこともやらず、おっかなびっくり
生活しているわけではない。

まして、病気になったことに落胆してばかりいて、人生を悲観しているわけではない。

 

前向きに双極性障害と付き合う方法

私は、双極性障害という訳の分からない病気になってしまったわけだが、
「人生詰んだ」とか「人生オワタ\(^o^)/」とかこれっぽちも思っていない。

これは、うつ病になってしまった人や、八方ふさがりの状態に直面して
悩んでいる人にも言いたいが、悲観的なことばかり考えていたら
自分がかわいそうである。

人間というのは、不幸になるために生まれてきた訳では決してない。
幸せになるために生まれてきたのである。

まずは、この事を肝に銘じ人生を歩んでいった方がよほど
有意義ではないだろうか?

また、人生のすべてを双極性障害を治すことにささげるのは
私はお勧めしない。

確かに、大変な病気であるし、治るまで長期間かかるものである。

しかし、自分がこの世に生を受けた意味というのを考えてほしい。
決して双極性障害を治すためだけに生まれてきた訳ではないのだから。

私には私の、あなたにはあなたの生まれてきた使命が必ずある。

 

4回の精神病院入院を経験して思う事

入院しているときはとにかく、やることがない。暇なのである。

起きて、朝食を食べて、昼食を食べて、夕食を食べて、時間になったら
寝る。これの繰り返しだ。

あとの時間はフリータイムである。

その時間に私はいつも考えていたのは、(初めの頃はテンションが
上がったり、下がったりでまともに物事が考えられなかったが)
やはり、人生の意味だろう。

 

自分はこの先どうなる?

なぜ自分は生まれてきた?

こんな生活まっぴらだ!

人生ここで終わったら?

 

どう考えても、前向きにしたたかに生きて行った方が有意義であるという
事に考えが落ち着いた。

そして、こう思う。

「今は死ねない。このままで終わるわけにはいかない」

と。

 

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双極性障害になって気を付けていること

早寝早起きは鉄板

私が双極性障害になって最も気を付けているのは、睡眠時間の確保である。

医者が言うには、普通の健常者でも睡眠時間が短くなってくると、
精神的にテンションが上がってしまうらしい。

双極性障害という病気はテンションが、上がりすぎたり、
下がりすぎたりする病気である。

とくに、テンションが上がってしまった時に、多くの問題を起こしてしまう。

夜は22時には寝てしまうが、翌日朝は5時に目を覚ます。

また、極力昼寝もするようにしている。昼寝は、10分の時もあれば
15分の時もある。

このようにして、私は睡眠時間を確保している。

 

歩くのは血液循環のため

私は、とにかく歩くことにしている。

歩くことによって、血液が体全体を循環して、酸素や栄養が
いち早く脳に届く。

双極性障害は、脳の伝達物質のがうまく届かなかったりすることによって
引き起こされるからだ。

あと、脳というのは体全体の約3割の酸素を消費するといわれている。
歩くことによって、血液をポンピングして強制的に循環させてやる。

頭の中が、シャキッとして、うつうつした気分ではなくなる。

 

ガテン系肉体労働をする理由

私は双極性障害になってからというもの、おおむねガテン系と言われる
肉体労働に従事してきた。

その理由は、双極性障害になってしまって、精神的にあまり脳に負担を
掛けるべきではないと思ったからだ。

なるべく、体にとっては少々きついが精神的にはあまり負担とならない
仕事を選んできた。

また、肉体労働系の仕事は、人間関係もサバサバしていてあまり負担ではないし
余計なことで悩まなくても済む。

 

双極性障害の治し方 まとめ

とにかく、毎日体を動かして、良質な睡眠をとることを
心がけている。

そして良質な睡眠をとるには、体を多少疲れさせなくてはいけない。

あと、肉体を一日中使うようなことをしていればおなかも減るので、
食欲も大盛になるというものだ。

医者が処方した薬をただ飲んでいて、それで不摂生をしていては
治るものも治らない。

これでもかというほど規則正しい生活をして、体も動かし、
それで、処方された薬を飲めば効果も高まるだろう。

私はこのように考え日々の生活をしている。

双極性障害の治し方なんて答えが具体的にあるわけではない。

だって、いくら医者が双極性障害になった原因を調べても
原因を特定できないのだから。

処方された薬だって、要は対処療法であり症状を緩和するだけに
他ならない。

だったら、双極性障害の症状が再び出ないように、普段から
健康的な規則正しい生活をするだけである。

間違っても、「私は双極性障害だから」といって、日々何にもせず
暮らしていては、その人の生活は悪くなる一方だと思う。

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子供たちの事

子供が5人に

私に第一子の聡が誕生してから現在では、5人の子供たちがいる。

前妻との間には二番目の仁である。聡が生まれた3年後に誕生した。
二人続けて男の子だったため、さぞにぎやかな家庭になると喜んでいたが、
私が双極性障害になったため前妻とは離婚してしまった。

当時の前妻の気持ちは痛いほどわかる。前妻の母親は私たちが恋人時代より
うつ病を患っていた。そこに、二人目の子供ができ、しまいには私が双極性障害に
なってしまうという災難が起こってしまった。

二人の子供を育てるだけでも大変なのだ。
取りあえず、私という厄介な存在だけでも取り除く方が賢明だっただろう。

 

そして、その後数年して私は再婚した。相手というか今の家内はフィリピン人である。
前妻と離婚をして、少しヤサグレていた私にもっと自分の将来を考えるよう諭してくれた。

結局、今の家内と恋に落ち、結婚し、家内の連れ子が3人いたので
いきなり私は、合計5人の親になってしまった。

 

今は3人家族

現在我が家は、私とフィリピン人の家内と、長女の3人家族である。
フィリピン人の次女と長男はフィリピンでまだ学生をしている。

長女は日本で働きたいと言って日本に来たが、次女と長男はまだ
どこの国で働くかは未定だ。ただ、日本でないことは確かだろう。

長女はあまり勉強が好きではなかったため、ハイスクールを中退して
フィリピンで商売をやっていたが、あまり芳しくなかったため、日本にやってきた。

しかし、日本では日本語が最低限、話せて、読めて、書くことが出来なくては
まともな仕事はない。まして、英語がほぼ通じないと来ている。これは外国人にとっては
かなり厄介なことだ。

 

フィリピンの国語

フィリピンの国語はタガログ語だが、第二国語として英語を採用している。
テレビ番組は約半分、新聞、行政機関の広報誌はほぼ英語で書かれている。

世界中の船乗りで、フィリピン人が一番多いというのは有名な話だ。

彼らは、自国にあまり産業がないため、英語をマスターし海外に出ていくというのが
ごく普通の事なのだ。

家内の親戚たちも、アメリカをはじめとしてヨーロッパ、中東等世界中に散らばっている。

元々、スペインやアメリカに統治されていたため語学学習能力はあるのだろう。

 

私達夫婦の楽しみ

私達夫婦は週に一度はSkypeでフィリピンの子供たちと会話をする。

これが何とも言えない心の癒しになる。最近ではフィリピンの子供たちが私の事を
「オトーサン」というようになった。

初めていわれたときは、涙が出そうになったものだ。

私は慣れない英語で、少しの会話を楽しむ。家内は毎日のように
スマフォのアプリで話をしているようだ。

本当に便利になった。家内と付き合ったころは、フィリピンへの
国際電話の金額を気にしなければいけなかったのだから。

今は、お互いの顔を見ながら会話ができる。しかも無料で。

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初めての子供

初めての子供は男の子

私と前妻に初めて子供ができたのは、私たちが30歳の時だった。
もっと早くに欲しかったのだが、中々できなかった。

しかし、子供というのは授かりものであるからして、かなり
楽観視していた。

そしてついに、前妻が妊娠。

私としては、両親が離婚しているので、家族が増えるという事が
非常にうれしかった。喜びすぎたのかもしれない。

少しこのあたりで、双極性障害の症状が出ていたように思う。

何かの本で読んだことがあるが、人というのは、うれしすぎても
悲しすぎても心を病んでしまうと。

出産前に、子供の性別はわかっていたので、男の子用の
ベビー用品を買いそろえた。

前妻は、実家に帰っていたので、当然身軽な私が買い物に
行くことになる。

そこで私は、あれもこれもと通常ではあまり買わないものまで
買い込んでしまうことになる。

その時前妻は、まぁ、初めての子供だから嬉しくてしょうがないのだろうと
言っていたが、後あと考えると、双極性障害の症状であった。

 

難産で初産を

そして、ついに前妻が産気づいた。私も病院に立ち会い、
出産には何と、24時間かかってしまい、最後には帝王切開しかない
という所まで来ていた。

病院の医師に、帝王切開をするにあたっての同意書にサインを求められた。
同意書というのは、要は手術を行うにあたって、病院側は最善を尽くすが、
もしもの場合は、何も責任を負いませんよ。というものであった。

何と無責任な!と私は思ったが、サインをした。

そしてついに、おぎゃーと第一子が誕生したわけである。

24時間長かった。前妻にはお疲れさまと言い、息子と
初対面した。

しわくしゃのサルのような顔をした息子が非常にいとおしかった。

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前妻が退院

約1週間後前妻が退院した。私は生まれたばかりの息子を
ゆりかごに入れ車をスタートさせていた。

息子は聡と名付けた。聡は私の親にとっても義理の親にとっても
初孫だった。

特に私の母の喜びようというのは大変なものであった。

聡が生まれてきてすぐ病院でガラス越しに写真を撮りまくっていた。
私は息子がまぶしいだろうと注意してもお構いなしである。
何と非常識なばあばであろうと思ったものだ。

 

それからは聡が中心に生活が回っていった。
夜泣きや、おむつ交換も私も手伝った。

でも、なぜか大変だというよりうれしかった。

今、世間ではいかに子育てが大変でつらいものであるかという事にばかり
クローズアップされているが、昔の親たちはみんな今より大人数の
子供を育ててきたのである。

子育て=つらい、大変

というのは、どんどん子供を産ませなくさせる何かのプロパガンダみたいだと
私は思う。

 

前妻と私の趣味

私が双極性障害を発症した当時の家族

私には以前、同級生同士で結婚した前妻がいた。

出会ったのは中学生の時である。それから12年後、同窓会で
再開し結婚するに至った。結婚したのはお互いが27歳の時である。

私は当時、建築関係の会社で設計の仕事をしていて、非常に
忙しかったが、仕事の合間にお互いの趣味であるオートバイで
ツーリングなどを楽しんだ。北海道にも2台のオートバイで行ったりした。

私はオートバイの大型免許を持っている。オートバイには16歳の時から
乗っている。
しかし、大型免許を取得したのは実は前妻が私より先であった。

当時は、オートバイの大型免許というカテゴリーはなく、教習所でも
取得できるのは、中型(400cc以下)免許までだった。

中型免許は教習所で取得できるが、それ以上の排気量のオートバイに
乗るためには、直接試験場に言って免許を取得しなければいけなかった。
いわゆる、「一発試験」というやつだ。
しかも合格率は10%台という低い物だったため、
当時大型のオートバイに乗っているだけで皆には一目置かれたものだった。

 

4回のチャレンジで前妻が合格

そもそも、前妻がそんなにオートバイが好きだったというとそういう訳ではなかった。
私の家には良く中学時代の同級生で、オートバイを趣味とする仲間たちが良く訪れていて、
私がそんな中、あまりにもオートバイの話ばかりするので、あまり相手にされない前妻が
一念発起して取得したのだった。

前妻が、

「ナナハンの免許を取る」

と言い出したのは、彼女が中型免許(現在の二輪普通免許)を取ってすぐの事だった。
何と、彼女は男性でも10回受験してもなかなか合格しない試験に
4回で合格してしまったのだ。

これでは、キャリアとしても長くオートバイに乗っていてしかも男である私の
面目は丸つぶれである。

そして早々に、私も大型免許にチャレンジするのであった。

 

結局のところ、私は3回のチャレンジで合格できたのだったが、
前妻よりも成績が悪かったらどうしようかと随分思ったものだ。

 

念願の大型バイク購入

結婚した頃、我が家には4台のオートバイがあった。
東京でも田舎の方に住んでいたため、大家さんのご厚意によって、
車一台とバイク4台の生活をしていた。

私のバイクは3台で、前妻のは1台である。
2人共が大型二輪の免許を取得したことによって、二人の話題は次に購入する
バイクの事だった。

結局のところ今4台あるバイクを一台の大型バイクにしようと話がまとまった。

そして、購入したのは当時「世界最速」をうたい文句としたKAWASAKIのZZR-1000
だった。

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新たなアルバイトに挑戦

郵便局の求人広告を発見

ある日、ポスティングのアルバイト先へ自転車で向かっていると、
最寄りの郵便局の近くで、アルバイト募集のポスターを発見した。

オートバイによる郵便配達の仕事である。

幸い、オートバイの免許は大型まで持っていた。しかも、私は大の
オートバイ好きである。この仕事はうってつけではないかと思い
早速面接に挑んだ。

仕事の内容としては、90ccのバイクでの郵便配達であるため
小型以上の免許が必要であること。時間は1日6時間。
社会保険があるという事。

条件を聞いた私は是非ともやりたいという気持ちになり、
翌週より郵便配達を始めることとなる。

 

郵便配達は体力勝負

実際に郵便配達を始めてみたところ、オートバイの運転
に関しては、それまで大型のオートバイを乗っていたため
難なくこなせたが、配達に関しては思っていたほど楽ではなかった。

ちょっとオートバイを走らせてはポストの近くで止まりポストまで
速足で郵便物を運ばなくてはいけないため、1日やっていると
かなりの距離を歩くことになる。正に体力勝負だった。

この事は、私の双極性障害を治すにはもってこいである。
1日働くとおなかも減り、疲れて夜には自然と眠くなり、
ぐっすりねむることになる。

双極性障害の症状がひどいときは、頭が冴えて
夜なかなか眠れないことが続いていた。その時とは
大違いであった。

この事は、ポスティングのアルバイトでも良かったのだが、
月の収入が違うのと、やはり、ファストフード店のアルバイト先
では、従業員がほとんで高校生や大学生である。

私は当時30歳も半ばであったため、私の同世代はだれもいなかった。
店長でさえ20代であったため、何となく居心地の悪さを感じていた。

しかし、郵便配達の仕事は、私より年上の方も多くいらっしゃり、
また、同世代の方もいらしたため、働きやすいというのもあった。

 

雨や雪の日は根性勝負

郵便配達をやっていると、曜日によって郵便物が多い日や
少ない日がある。

やはり、郵便物が多い日は大変だなぁ、というきもちになるし、
少ないと、今日は早く帰れそうだなぁ、とウキウキした気持ちになる。

しかし中でも大変なのは、大雨の日や大雪の日である。

ただでさえ雨や雪が降れば雨具を着なければいけない。

そして、郵便物を濡らさないように気を付けて配達しなければいけない。
なのに、前方の視界も良く確保できないような天候の悪い日でも
仕事は休むわけにはいかない。

天候の悪い日は、普段の倍以上体力を消耗する。
そんな気がした。

 

私には、郵便配達の仕事が向いていたのか、それから4年ほど
働くことになるのであった。

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生活支援センターとの出会いと座禅会

生活支援センターを知る

ある日、病院で知り合ったKから電話があり、退院後の様子などを
お互いにいろいろ話していた。

その時私が、Kは今何をしているんだと聞くと、
「毎日生活支援センターに来ている」
と言っていたので、生活支援センターの事についていろいろ聞いた。

Kによると、生活支援センターというのは、主に心の病気などの人の
様々な手助けをするところだという。だからといって、症状の重い人
ばかりかというとそうではないらしい。

そこに行けば病気で苦しんでいるのは自分だけではないことが分かるし、
度々イベントなど催し物もある。疲れていれば横になって寝ていても良いらしい。

私は、アルバイト以外これと言ってすることもなく、ましてそれほど多い時間
働いていたわけではなかったので、興味本位で住んでいる地域の
生活支援センターを訪ねてみた。

そこでは、症状の重い人から、軽度の人までいたわけだが、
私としては、同じ病気の人と話ができることが気に入ったので、
度々そこを訪れた。

 

退院後の私の一日

こうやって、退院後の私の生活はおおむね規則正しいものになった。

朝起きて、アルバイトに行き、一生懸命にへとへとになるまで歩き、
昼食を食べ、生活支援センターへ行き、仲間たちとおしゃべりを楽しみ、
家に帰り、夜ご飯を食べ、疲れて寝る。

というパターンで、おおむね毎日を過ごした。

しばらくして、このパターンにもう一つあることが加わることになる。

 

座禅会への参加

私はとにかく、病気に良いとされることは試してみたい
という衝動に駆られていた。

座禅会への参加もその一環だった。

私の卒業したのが、建築系というのもあるが、私は神社や寺を
観るのがとても好きである。
特に歴史のある古い建物は素晴らしいと思う。

そんな関係で、アルバイトが休みの日などは
ふらりと一人で電車やバスに乗って、神社や寺えお観て回ったりしていた。

ある日、ある寺で、座禅会というものが開催されていることを知ることになる。
寺にその内容を聞くと、だれでも参加でき、心のリフレッシュにもなるという。
帰宅し、パソコンで調べてみると、かなりの寺で座禅会をしているのを
知った。

という事で、休日には色々なお寺に行き、座禅会に参加するのが
私のお気に入りとなっていた。

 

座禅で大切なこと

良く座禅するときは

「心を無にする」

とかいうが、あれはおおむね間違っているらしい。

あるお寺の住職曰く、人の頭の中、即ち心が無の状態というのは
死んでいる状態だと。だから、いろいろなことが頭の中をめぐるのは
別にしょうがないことであると。

それよりも、鼻から大きく息を吸って、ゆっくり口から出す
という事をまずは覚えなさいとの事だった。

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