躁うつ病(双極性障害)の原因とは?

躁うつ病(双極性障害)の原因

ここまでの説明で、双極性障害(躁うつ病)とは非常に厄介な病気であることが
お分かりいただけたと思います。

それでは、この病気の原因とはいったい何なのでしょうか?

躁やうつの原因は一般的に、脳内の情報伝達の乱れであると考えられています。ストレスがきっかけとなることがありますが、直接の原因ではないと言われています。治療薬の作用などから躁状態、うつ 状態では、ドーパミンやセレトニンなどの脳機能を調整している神経伝達物質の機能が変化していると考えられています。

現在このようなことまではわかっていますが、神経伝達物質が変化してうつや躁になる理由ははっきり申し上げて、未だ解明されていません。

双極性障害は一つの遺伝子の異常で起こる遺伝病と言われることもありますが、そのようなこともありません。

結局のところ、どのような仕組みや作用によって発病するのかが未解明であります。
ゆえに、治療方法に至ってもまるで手探りのように自分に合う薬を処方してもらうより仕方ないのが現状です。

 

双極性障害(躁うつ病)のくすり

双極性障害(躁うつ病)は、放置してしまうと再発を繰り返しやすい病気といわれていますが、幸いなことに、現在では再発予防に有効な 薬物が多数知られており、これらを使うことで、かなり病状をコントロールするこ とができます。 双極性障害の再発予防には、リチウムを初めとする気分安定薬、およびオ ランザピンなどの非定型抗精神病薬が用いられます。

気分安定薬
リチウム

リチウム(商品名:リーマスなど)は、食塩などと同じミネラルであり、市販のミネラルウォーターなどにも微量ながら含まれています。精神疾患の治療薬として最も古く用いられています。躁状態、うつ状態の治療及び双極性障害の予防に有効であるという事が証明されています。双極性障害の治療薬として標準的に用いられています。更に自殺予防にも効果的とされているため双極性障害の患者の死亡率を低下させる効果もあります。どのように作用するかというメカニズムは細胞内情報伝達系に働くことにより、神経細胞を保護したり新期にできる神経細胞を増やすことにより効果を発揮すると考えられています。

リチウムの副作用

リチウムを服用すると初めの一週間ほどは、たまに下痢や吐き気、手の震えなどが出たりします。しかしながら、これらは服用するうちに次第に慣れてきます。しかし、手の震えは服用している限り続いてしまう方も見受けられます。リチウムは治療量と中毒量とが近い薬品です、長期に服用中も、体調の大きな 変化や他の薬の併用によって血中濃度が高まると副作用が出やすくなりますので、時々血液検 査を行い、薬の血中濃度を調べ、副作用を予防します。

 

 

 

双極性障害(躁うつ病)とはこんな病気です

双極性障害(躁うつ病)とは

躁状態と、うつ状態という2種類の病相(病気の症状)を交互に
繰り返す病気です。

これらの症状が治った後は、まったくごく普通に暮らすことができます。
病相が1回のみで収まることは少なく、予防治療をしないで、放っておいたりした場合
多くの場合は再発を繰り返します。

年齢とともに再発をする間隔が狭まるため、通常は予防療法を行います。
再発は予防治療により防ぐことが可能です。

明らかな躁状態がある場合は、双極 I 型障害と呼ばれます。
軽躁状態(軽い躁状態)とうつ状態を繰り返 す場合は、双極 II 型障害と呼ばれます。
軽躁状態は、むしろ調子の良い状態と感じるので、
双極 II 型障害は、本人や周りの人にとっては、「うつ病」と感じられたりします。

しかしながら、双極 II 型障害ではうつ状態が再発しやすいことなどもあり、
双極性障害に含めているのが現状です。

 

躁状態とうつ状態

躁状態になると、とにかく気分良くなり、高ぶり、機嫌よく誰かれとなく話しかけて回ったりし ます。
しかも、時間帯などもお構いなしで、電話をしまくったりします。

夜眠らないでも平気になるほど活動的になり、自分は誰よりも偉いとゆうような感じもしてきます。
良いアイデアがどんどん浮かんできて、いつもより活動的になります。

このように、誇大妄想や万能感、多幸感がひどくなり、高価な買い物をいきなりしたり、
会社を立ち上げると言い出したり、選挙に出馬するなどと言い出したりして、その度に周りは
振り回され疲労してしまいます。

一見、躁状態は調子が良い状態に見えますが、行動自体が軽率になりがちで、
そのため多額の借金を抱えたり、信用を失ったり、社会的地位を失ったりします。

 

一方、うつ状態に陥ってしまうと一日中、気分は憂鬱になり、いつも見ていたテレビ番組などにも興味が持てず、何をしていても楽しめなくなってしまいます。時には何も食べる気にならず、

体重が何kgも減ってしまったりします。夜は寝付かれないうえに、やけに早い時間に目覚めたりしてしまいます。過去の事をくよくよと後悔したり、自分を責めてばかりしたりします。逆に、食欲が過度に増えてしまったり、(過食)眠りすぎてしまったりします。(過眠)

仕事を始めようと思っても、考えがうまく進まず、集中力や決断力などが無くなり、
ひどく疲れやすくなってしまい、とても仕事はできません。

何事もおっくうに感じてしまい、機敏に行動できなくなってしまいます。時にはじっとしていることもままならず、立ったり座ったりととても落ち着きません。しまいに、もう死ぬしかないと思いつめ、実際に自殺を図ってしまう人もいます。

躁状態でも、うつ状態でも、重症時には妄想や幻聴、幻覚があらわれてしまう事があります。

躁状態では、誇大妄想(自分の先祖は天皇陛下である等)や幻聴(実際は聞こえない音が聞こえてしまう)、うつ状態では貧困妄想(お金がない等)、心気妄想(癌になった)、罪業妄想(大罪を犯した)等が特徴として挙げられます。

双極性障害(躁うつ病)では、こんな形で二つの両極端な症状があらわれるのが特徴的です。

 

 

フィリピン式ホームパーティー

おもてなしの心は日本の専売特許ではない理由

フィリピン人の家内と結婚して色々と文化の違いなどで
驚かされることがあるが、中でもホスピタリティーに関しては
フィリピン人は世界でも群を抜いているのではないだろうか?

ホームパーティーなどではその傾向が顕著に表れるとわたしは思う。

例えば、日本人は自分の誕生日に何か自宅でお祝いなどをしようとする時は
自分以外の人が色々と準備をすると思うが、フィリピン人は逆なのである。

自分の誕生日は、自分が料理などいろいろと準備をし、仲間や知り合いを
よんでもてなす。

と、こんな感じなのだ。だから、

一緒に住んでいる家族も手伝う。

家内や、娘が誕生日の時などは前日から大量の料理を作り、
友人知人を呼び祝う。

昨日は結婚記念日の前夜祭

昨日は結婚記念日の前夜という事もあって、普段だと
家内がフィリピン料理を振る舞うのだが、今回は私が
主に日本料理を作った。

高価な商材は買っていないが、今まで家内に食べさせていない
料理もつくった。

きゅうりと春雨のサラダ、もろきゅう、こんにゃくときのこの和え物、
炊き込みご飯、焼きそば、ゴーヤーチャンプルー、フレンチフライ。

約5時間で7品目を私一人で作った。いやはや、大変であったが
何とか完成にこぎつけた。途中キッチンで出汁の素が見つからず、
買い出しに行くというハプニングもあったが・・・

料理は家内と娘に好評で私も大いに満足だった。

特に炊き込みご飯は、私も初めて作ってみたので、出来上がりに
少し不安があったが、事前に何回かYouTubeで作り方を
確認してあったので、順序良く作ることができた。

世の中インターネットができ、本当に便利になったものだ。
YouTubeをこんな感じで、レシピ動画として使っている人は
かなりいるだろう。

私だけではないはずだ。

 

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来年は次女の卒業式

家内と娘はもう何年もフィリピンに帰っていない。

義理の両親もだんだんと高齢になってきた。次女も
来年は大学の卒業を控えている。

という事で、来年はみんなでフィリピンに
帰省しようという事になっている。

次女は現在、卒業後の進路についていろいろ
考えているようだ。

最近、フィリピンでは国内の仕事も増えてきたという事で、
海外に働きに出なくても良さそうではあるが、
次女としてはアメリカで働きたくもあるらしい。

フィリピンでは第二公用語が英語であるため、多くの人は
海外で働くことに対して、あまり抵抗がない。

テレビ番組は半分が英語だし、新聞は英語、役所の書類は
全て英語、・・・

日本もここまで英語を徹底して教えれば、多くの人が
英語を話すことができるようになるのだろう。

人生の再出発

生活保護の問題

私は、双極性障害になって財産と呼ばれるものは全て
失ってしまったわけだが、病院を退院し、新たな妻とも結婚し、
新しい家族もできた。

ここまで来るのには、長い時間がかかったが、致し方ないだろう。

現在は、物流業界でトラックドライバーとして働いている。

初めて精神病院に入院した時はケースワーカーに、
生活保護も勧められたが、断固として普通の生活を選んだ。

理由は

「生活保護をもらう理由が自分にない」

からだ。
世間では生活保護の不正受給問題が度々さけばれれている。

私としては、体に何か不自由な部分があるわけではない。
ただ、一時的にテンションが上がりすぎたりするだけだ。

五体は満足である。働けないわけではない。

まして、子供たちに良い影響があるはずがないではないだろうか?
親が働いていないとなると子供は自信をもって生活できないだろう。

 

チラシ配りからの再出発

私は、以前書いた通り、双極性障害になって精神病院に入院し、
退院後は、ファストフード店のチラシ配りから人生を再スタートさせた。

人生は何度失敗しても、やり直せるというのが私の持論だ。遅すぎると
いう事はない。

チラシ配りから再スタートして、何種類かのアルバイトを経験し、
契約社員も経験し、現在では正社員である。

頑張っていれば、何とかなるものなのである。

人生頑張る前からあーだ、こーだと理屈をこね、できない理由ばかりを
探している人が非常に多い様に私は感じる。

これは、障がい者、健常者関係なく見受けられる。

 

病院の言う事を鵜呑みにするな

私は、精神病院のケースワーカーの勧めで、
生活保護を受けなくて本当に良かったと思っている。

もしあの時、生活保護を受給していたら、今の生活は
絶対にありえないだろう。

多分、今でも生活保護をもらいながら、ただただ漫然と
時間という限りある財産を浪費していたに違いない。

そんな生活は嫌だったし、まして私は負けん気が強かった。
そして、生活を向上させたいという欲もあった。

贅沢とは少し違うと思うが、もっと美味しいものが食べたかったし、
旅行もしたかった。

生活保護ではかなわないだろう。

 

3回の海外旅行

生活保護をもらっていてはできなかったことに、
海外旅行がある。

私は双極性障害になって以降3回フィリピンに旅行している。
しかも、2回はアルバイト時代である。

実は家内と結婚するためにフィリピンに行ったのだが、
いやはや、やはりというか、軽いカルチャーショックを受けて
帰ってきた。もちろん良い意味で。

とにかく、家内もそうであるが、みんなが明るく元気なのだ。

決して裕福な国ではないというのはわかっていたが、
これでもかというくらいに明るい。

家内との出会いに感謝した瞬間である。

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よき理解者を持って感じた事

愛する家内が最大の理解者

私には現在、フィリピン人の家内がいる。前妻といろいろあり
離婚し、少々投げやりな人生を送っていた頃、今の家内と出会った。

出会ってすぐに、二人は恋に落ちたわけだが、双極性障害になって投げやりに
なっていた自分に当時の家内は、自分を大切にするよう
口を酸っぱくして言っていた。

 

双極性障害という病気は症状が出なければ、ごく普通の健常者となんら
かわらない。

この事を含め当時の家内は、よく理解してくれていた。

それから約2年たって、私たちは結婚した。

お互い再婚同士という事もあって、反対する意見もあったが、
二人はめでたくフィリピンんで結婚式を挙げた。

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理解者の大切さ

今の家内と結婚して、もう10年以上になる。

些細なことでけんかしたこともあるし、私の双極性障害の病気の
症状で家内に迷惑をかけたこともある。

だがしかし、10年である。

私たちは、健常者の夫婦と何ら変わらない生活と
ささやかな幸せを送っている。

正に家内のおかげである。

私としてみれば、双極性障害になって、前妻と離婚し
また新たに結婚できるとは考えられなかった。

双極性障害にとって、きちんと薬を飲むことや、
規則正しい生活をするのはもちろん大切だが、
自分を心から理解し、愛してくれる人がいるだけで
相当良い影響があると思う。

 

失ったもの

私が双極性障害になって失ったものと言えば、計り知れない。

信用、友人、仕事、家族、財産。

 

お金で再び取り戻せる物なら良いが、信用や家族や友人などは
また、一からである。

今までだと、何か悩みがあれば友人に相談できたことでも、
自分が精神的な病であることなど、新たにできた健常者の
友人には相談できない。

 

自分が強くあるべき

双極性障害というのはある意味、自分の弱さからくる病気
なのではないかと思っている。

双極性障害になってしまうと、理解してくれる相談者も
なかなかいない中では、自分を強く持ってしっかり生きていくしか
ないと思う。

もう以前のように何でも話せる友人や、知人などいないのだから。

私はたまたま、再婚できよき理解者を得られたが、それでも
家内は外国人であるため、言葉の細かなニュアンスが
伝わらなかったりする。

生活支援センターなどで知り合いができたりするが、彼らもまた
病気と闘っている身であるため中々余裕がない。

やはり、結局は自分を強くしていくしかないのではないかと思っている。

 

大きな山であるが、乗り越えた時には自分が一歩も二歩も
成長していることに気付くはずである。

 

双極性障害になっても寛解をめざし

寛解(かんかい)するという事

寛解:完治とまでは言えないけれども、病状が治まっておだやかな状態にある事。
と、検索すると出てくる。

ある日を境に、寛解することはありえない。私の場合、まるで幾重にもある薄皮が
めくれるように症状が改善してきた。

その度合いも、一歩進んで二歩下がり、翌週にはまた一歩半進むというような
感じで一進一退を繰り返すような感じだ。

おおむね私の場合、10年がかりで寛解ではないかという所まで来たわけだが、
予断は許さないと肝に銘じている。

 

だがしかし、双極性障害の症状を恐れ、やりたいこともやらず、おっかなびっくり
生活しているわけではない。

まして、病気になったことに落胆してばかりいて、人生を悲観しているわけではない。

 

前向きに双極性障害と付き合う方法

私は、双極性障害という訳の分からない病気になってしまったわけだが、
「人生詰んだ」とか「人生オワタ\(^o^)/」とかこれっぽちも思っていない。

これは、うつ病になってしまった人や、八方ふさがりの状態に直面して
悩んでいる人にも言いたいが、悲観的なことばかり考えていたら
自分がかわいそうである。

人間というのは、不幸になるために生まれてきた訳では決してない。
幸せになるために生まれてきたのである。

まずは、この事を肝に銘じ人生を歩んでいった方がよほど
有意義ではないだろうか?

また、人生のすべてを双極性障害を治すことにささげるのは
私はお勧めしない。

確かに、大変な病気であるし、治るまで長期間かかるものである。

しかし、自分がこの世に生を受けた意味というのを考えてほしい。
決して双極性障害を治すためだけに生まれてきた訳ではないのだから。

私には私の、あなたにはあなたの生まれてきた使命が必ずある。

 

4回の精神病院入院を経験して思う事

入院しているときはとにかく、やることがない。暇なのである。

起きて、朝食を食べて、昼食を食べて、夕食を食べて、時間になったら
寝る。これの繰り返しだ。

あとの時間はフリータイムである。

その時間に私はいつも考えていたのは、(初めの頃はテンションが
上がったり、下がったりでまともに物事が考えられなかったが)
やはり、人生の意味だろう。

 

自分はこの先どうなる?

なぜ自分は生まれてきた?

こんな生活まっぴらだ!

人生ここで終わったら?

 

どう考えても、前向きにしたたかに生きて行った方が有意義であるという
事に考えが落ち着いた。

そして、こう思う。

「今は死ねない。このままで終わるわけにはいかない」

と。

 

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双極性障害になって気を付けていること

早寝早起きは鉄板

私が双極性障害になって最も気を付けているのは、睡眠時間の確保である。

医者が言うには、普通の健常者でも睡眠時間が短くなってくると、
精神的にテンションが上がってしまうらしい。

双極性障害という病気はテンションが、上がりすぎたり、
下がりすぎたりする病気である。

とくに、テンションが上がってしまった時に、多くの問題を起こしてしまう。

夜は22時には寝てしまうが、翌日朝は5時に目を覚ます。

また、極力昼寝もするようにしている。昼寝は、10分の時もあれば
15分の時もある。

このようにして、私は睡眠時間を確保している。

 

歩くのは血液循環のため

私は、とにかく歩くことにしている。

歩くことによって、血液が体全体を循環して、酸素や栄養が
いち早く脳に届く。

双極性障害は、脳の伝達物質のがうまく届かなかったりすることによって
引き起こされるからだ。

あと、脳というのは体全体の約3割の酸素を消費するといわれている。
歩くことによって、血液をポンピングして強制的に循環させてやる。

頭の中が、シャキッとして、うつうつした気分ではなくなる。

 

ガテン系肉体労働をする理由

私は双極性障害になってからというもの、おおむねガテン系と言われる
肉体労働に従事してきた。

その理由は、双極性障害になってしまって、精神的にあまり脳に負担を
掛けるべきではないと思ったからだ。

なるべく、体にとっては少々きついが精神的にはあまり負担とならない
仕事を選んできた。

また、肉体労働系の仕事は、人間関係もサバサバしていてあまり負担ではないし
余計なことで悩まなくても済む。

 

双極性障害の治し方 まとめ

とにかく、毎日体を動かして、良質な睡眠をとることを
心がけている。

そして良質な睡眠をとるには、体を多少疲れさせなくてはいけない。

あと、肉体を一日中使うようなことをしていればおなかも減るので、
食欲も大盛になるというものだ。

医者が処方した薬をただ飲んでいて、それで不摂生をしていては
治るものも治らない。

これでもかというほど規則正しい生活をして、体も動かし、
それで、処方された薬を飲めば効果も高まるだろう。

私はこのように考え日々の生活をしている。

双極性障害の治し方なんて答えが具体的にあるわけではない。

だって、いくら医者が双極性障害になった原因を調べても
原因を特定できないのだから。

処方された薬だって、要は対処療法であり症状を緩和するだけに
他ならない。

だったら、双極性障害の症状が再び出ないように、普段から
健康的な規則正しい生活をするだけである。

間違っても、「私は双極性障害だから」といって、日々何にもせず
暮らしていては、その人の生活は悪くなる一方だと思う。

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子供たちの事

子供が5人に

私に第一子の聡が誕生してから現在では、5人の子供たちがいる。

前妻との間には二番目の仁である。聡が生まれた3年後に誕生した。
二人続けて男の子だったため、さぞにぎやかな家庭になると喜んでいたが、
私が双極性障害になったため前妻とは離婚してしまった。

当時の前妻の気持ちは痛いほどわかる。前妻の母親は私たちが恋人時代より
うつ病を患っていた。そこに、二人目の子供ができ、しまいには私が双極性障害に
なってしまうという災難が起こってしまった。

二人の子供を育てるだけでも大変なのだ。
取りあえず、私という厄介な存在だけでも取り除く方が賢明だっただろう。

 

そして、その後数年して私は再婚した。相手というか今の家内はフィリピン人である。
前妻と離婚をして、少しヤサグレていた私にもっと自分の将来を考えるよう諭してくれた。

結局、今の家内と恋に落ち、結婚し、家内の連れ子が3人いたので
いきなり私は、合計5人の親になってしまった。

 

今は3人家族

現在我が家は、私とフィリピン人の家内と、長女の3人家族である。
フィリピン人の次女と長男はフィリピンでまだ学生をしている。

長女は日本で働きたいと言って日本に来たが、次女と長男はまだ
どこの国で働くかは未定だ。ただ、日本でないことは確かだろう。

長女はあまり勉強が好きではなかったため、ハイスクールを中退して
フィリピンで商売をやっていたが、あまり芳しくなかったため、日本にやってきた。

しかし、日本では日本語が最低限、話せて、読めて、書くことが出来なくては
まともな仕事はない。まして、英語がほぼ通じないと来ている。これは外国人にとっては
かなり厄介なことだ。

 

フィリピンの国語

フィリピンの国語はタガログ語だが、第二国語として英語を採用している。
テレビ番組は約半分、新聞、行政機関の広報誌はほぼ英語で書かれている。

世界中の船乗りで、フィリピン人が一番多いというのは有名な話だ。

彼らは、自国にあまり産業がないため、英語をマスターし海外に出ていくというのが
ごく普通の事なのだ。

家内の親戚たちも、アメリカをはじめとしてヨーロッパ、中東等世界中に散らばっている。

元々、スペインやアメリカに統治されていたため語学学習能力はあるのだろう。

 

私達夫婦の楽しみ

私達夫婦は週に一度はSkypeでフィリピンの子供たちと会話をする。

これが何とも言えない心の癒しになる。最近ではフィリピンの子供たちが私の事を
「オトーサン」というようになった。

初めていわれたときは、涙が出そうになったものだ。

私は慣れない英語で、少しの会話を楽しむ。家内は毎日のように
スマフォのアプリで話をしているようだ。

本当に便利になった。家内と付き合ったころは、フィリピンへの
国際電話の金額を気にしなければいけなかったのだから。

今は、お互いの顔を見ながら会話ができる。しかも無料で。

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初めての子供

初めての子供は男の子

私と前妻に初めて子供ができたのは、私たちが30歳の時だった。
もっと早くに欲しかったのだが、中々できなかった。

しかし、子供というのは授かりものであるからして、かなり
楽観視していた。

そしてついに、前妻が妊娠。

私としては、両親が離婚しているので、家族が増えるという事が
非常にうれしかった。喜びすぎたのかもしれない。

少しこのあたりで、双極性障害の症状が出ていたように思う。

何かの本で読んだことがあるが、人というのは、うれしすぎても
悲しすぎても心を病んでしまうと。

出産前に、子供の性別はわかっていたので、男の子用の
ベビー用品を買いそろえた。

前妻は、実家に帰っていたので、当然身軽な私が買い物に
行くことになる。

そこで私は、あれもこれもと通常ではあまり買わないものまで
買い込んでしまうことになる。

その時前妻は、まぁ、初めての子供だから嬉しくてしょうがないのだろうと
言っていたが、後あと考えると、双極性障害の症状であった。

 

難産で初産を

そして、ついに前妻が産気づいた。私も病院に立ち会い、
出産には何と、24時間かかってしまい、最後には帝王切開しかない
という所まで来ていた。

病院の医師に、帝王切開をするにあたっての同意書にサインを求められた。
同意書というのは、要は手術を行うにあたって、病院側は最善を尽くすが、
もしもの場合は、何も責任を負いませんよ。というものであった。

何と無責任な!と私は思ったが、サインをした。

そしてついに、おぎゃーと第一子が誕生したわけである。

24時間長かった。前妻にはお疲れさまと言い、息子と
初対面した。

しわくしゃのサルのような顔をした息子が非常にいとおしかった。

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前妻が退院

約1週間後前妻が退院した。私は生まれたばかりの息子を
ゆりかごに入れ車をスタートさせていた。

息子は聡と名付けた。聡は私の親にとっても義理の親にとっても
初孫だった。

特に私の母の喜びようというのは大変なものであった。

聡が生まれてきてすぐ病院でガラス越しに写真を撮りまくっていた。
私は息子がまぶしいだろうと注意してもお構いなしである。
何と非常識なばあばであろうと思ったものだ。

 

それからは聡が中心に生活が回っていった。
夜泣きや、おむつ交換も私も手伝った。

でも、なぜか大変だというよりうれしかった。

今、世間ではいかに子育てが大変でつらいものであるかという事にばかり
クローズアップされているが、昔の親たちはみんな今より大人数の
子供を育ててきたのである。

子育て=つらい、大変

というのは、どんどん子供を産ませなくさせる何かのプロパガンダみたいだと
私は思う。

 

前妻と私の趣味

私が双極性障害を発症した当時の家族

私には以前、同級生同士で結婚した前妻がいた。

出会ったのは中学生の時である。それから12年後、同窓会で
再開し結婚するに至った。結婚したのはお互いが27歳の時である。

私は当時、建築関係の会社で設計の仕事をしていて、非常に
忙しかったが、仕事の合間にお互いの趣味であるオートバイで
ツーリングなどを楽しんだ。北海道にも2台のオートバイで行ったりした。

私はオートバイの大型免許を持っている。オートバイには16歳の時から
乗っている。
しかし、大型免許を取得したのは実は前妻が私より先であった。

当時は、オートバイの大型免許というカテゴリーはなく、教習所でも
取得できるのは、中型(400cc以下)免許までだった。

中型免許は教習所で取得できるが、それ以上の排気量のオートバイに
乗るためには、直接試験場に言って免許を取得しなければいけなかった。
いわゆる、「一発試験」というやつだ。
しかも合格率は10%台という低い物だったため、
当時大型のオートバイに乗っているだけで皆には一目置かれたものだった。

 

4回のチャレンジで前妻が合格

そもそも、前妻がそんなにオートバイが好きだったというとそういう訳ではなかった。
私の家には良く中学時代の同級生で、オートバイを趣味とする仲間たちが良く訪れていて、
私がそんな中、あまりにもオートバイの話ばかりするので、あまり相手にされない前妻が
一念発起して取得したのだった。

前妻が、

「ナナハンの免許を取る」

と言い出したのは、彼女が中型免許(現在の二輪普通免許)を取ってすぐの事だった。
何と、彼女は男性でも10回受験してもなかなか合格しない試験に
4回で合格してしまったのだ。

これでは、キャリアとしても長くオートバイに乗っていてしかも男である私の
面目は丸つぶれである。

そして早々に、私も大型免許にチャレンジするのであった。

 

結局のところ、私は3回のチャレンジで合格できたのだったが、
前妻よりも成績が悪かったらどうしようかと随分思ったものだ。

 

念願の大型バイク購入

結婚した頃、我が家には4台のオートバイがあった。
東京でも田舎の方に住んでいたため、大家さんのご厚意によって、
車一台とバイク4台の生活をしていた。

私のバイクは3台で、前妻のは1台である。
2人共が大型二輪の免許を取得したことによって、二人の話題は次に購入する
バイクの事だった。

結局のところ今4台あるバイクを一台の大型バイクにしようと話がまとまった。

そして、購入したのは当時「世界最速」をうたい文句としたKAWASAKIのZZR-1000
だった。

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新たなアルバイトに挑戦

郵便局の求人広告を発見

ある日、ポスティングのアルバイト先へ自転車で向かっていると、
最寄りの郵便局の近くで、アルバイト募集のポスターを発見した。

オートバイによる郵便配達の仕事である。

幸い、オートバイの免許は大型まで持っていた。しかも、私は大の
オートバイ好きである。この仕事はうってつけではないかと思い
早速面接に挑んだ。

仕事の内容としては、90ccのバイクでの郵便配達であるため
小型以上の免許が必要であること。時間は1日6時間。
社会保険があるという事。

条件を聞いた私は是非ともやりたいという気持ちになり、
翌週より郵便配達を始めることとなる。

 

郵便配達は体力勝負

実際に郵便配達を始めてみたところ、オートバイの運転
に関しては、それまで大型のオートバイを乗っていたため
難なくこなせたが、配達に関しては思っていたほど楽ではなかった。

ちょっとオートバイを走らせてはポストの近くで止まりポストまで
速足で郵便物を運ばなくてはいけないため、1日やっていると
かなりの距離を歩くことになる。正に体力勝負だった。

この事は、私の双極性障害を治すにはもってこいである。
1日働くとおなかも減り、疲れて夜には自然と眠くなり、
ぐっすりねむることになる。

双極性障害の症状がひどいときは、頭が冴えて
夜なかなか眠れないことが続いていた。その時とは
大違いであった。

この事は、ポスティングのアルバイトでも良かったのだが、
月の収入が違うのと、やはり、ファストフード店のアルバイト先
では、従業員がほとんで高校生や大学生である。

私は当時30歳も半ばであったため、私の同世代はだれもいなかった。
店長でさえ20代であったため、何となく居心地の悪さを感じていた。

しかし、郵便配達の仕事は、私より年上の方も多くいらっしゃり、
また、同世代の方もいらしたため、働きやすいというのもあった。

 

雨や雪の日は根性勝負

郵便配達をやっていると、曜日によって郵便物が多い日や
少ない日がある。

やはり、郵便物が多い日は大変だなぁ、というきもちになるし、
少ないと、今日は早く帰れそうだなぁ、とウキウキした気持ちになる。

しかし中でも大変なのは、大雨の日や大雪の日である。

ただでさえ雨や雪が降れば雨具を着なければいけない。

そして、郵便物を濡らさないように気を付けて配達しなければいけない。
なのに、前方の視界も良く確保できないような天候の悪い日でも
仕事は休むわけにはいかない。

天候の悪い日は、普段の倍以上体力を消耗する。
そんな気がした。

 

私には、郵便配達の仕事が向いていたのか、それから4年ほど
働くことになるのであった。

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生活支援センターとの出会いと座禅会

生活支援センターを知る

ある日、病院で知り合ったKから電話があり、退院後の様子などを
お互いにいろいろ話していた。

その時私が、Kは今何をしているんだと聞くと、
「毎日生活支援センターに来ている」
と言っていたので、生活支援センターの事についていろいろ聞いた。

Kによると、生活支援センターというのは、主に心の病気などの人の
様々な手助けをするところだという。だからといって、症状の重い人
ばかりかというとそうではないらしい。

そこに行けば病気で苦しんでいるのは自分だけではないことが分かるし、
度々イベントなど催し物もある。疲れていれば横になって寝ていても良いらしい。

私は、アルバイト以外これと言ってすることもなく、ましてそれほど多い時間
働いていたわけではなかったので、興味本位で住んでいる地域の
生活支援センターを訪ねてみた。

そこでは、症状の重い人から、軽度の人までいたわけだが、
私としては、同じ病気の人と話ができることが気に入ったので、
度々そこを訪れた。

 

退院後の私の一日

こうやって、退院後の私の生活はおおむね規則正しいものになった。

朝起きて、アルバイトに行き、一生懸命にへとへとになるまで歩き、
昼食を食べ、生活支援センターへ行き、仲間たちとおしゃべりを楽しみ、
家に帰り、夜ご飯を食べ、疲れて寝る。

というパターンで、おおむね毎日を過ごした。

しばらくして、このパターンにもう一つあることが加わることになる。

 

座禅会への参加

私はとにかく、病気に良いとされることは試してみたい
という衝動に駆られていた。

座禅会への参加もその一環だった。

私の卒業したのが、建築系というのもあるが、私は神社や寺を
観るのがとても好きである。
特に歴史のある古い建物は素晴らしいと思う。

そんな関係で、アルバイトが休みの日などは
ふらりと一人で電車やバスに乗って、神社や寺えお観て回ったりしていた。

ある日、ある寺で、座禅会というものが開催されていることを知ることになる。
寺にその内容を聞くと、だれでも参加でき、心のリフレッシュにもなるという。
帰宅し、パソコンで調べてみると、かなりの寺で座禅会をしているのを
知った。

という事で、休日には色々なお寺に行き、座禅会に参加するのが
私のお気に入りとなっていた。

 

座禅で大切なこと

良く座禅するときは

「心を無にする」

とかいうが、あれはおおむね間違っているらしい。

あるお寺の住職曰く、人の頭の中、即ち心が無の状態というのは
死んでいる状態だと。だから、いろいろなことが頭の中をめぐるのは
別にしょうがないことであると。

それよりも、鼻から大きく息を吸って、ゆっくり口から出す
という事をまずは覚えなさいとの事だった。

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精神病院からの退院、仕事とリハビリ

2週間の入院生活

2週間の入院生活を終え、私は病院を退院した。
自分が思っていた以上に、入院生活は快適だった。

似たような病気を持つ人たちの声も聞け、精神病に悩んでいる
人は自分だけではないことも知ることになった。

入院中に病院のケースワーカーのアドバイスも有り、
「障がい者手帳」「障害年金」の申請も家族が済ませていた。

会社に対しても、傷病手当の申請を出してあった。

実家に戻ってアルバイト

退院後は、私はしばらく実家にいることになった。

退院したとはいえ、すぐには働くことはできない。

しかし、私は3日ほどして働き始めた。すぐに、本業に復帰するには
体力が持たないだろうという事で、実家の近くのファストフード店の
チラシをポスティングするアルバイトを始めた。

仕事は単調なものだった。指定された町内を徒歩で回り
各家庭に、ファストフード店のメニューをポスティングしていく。

さぼろうと思えば、さぼり放題な仕事であったが、
私は、毎日黙々とポスティングし続けた。

本業は退職

ポスティングのアルバイトをしながら、私は色々考えた。
考えた末、本業のパン工場はやめることにした。

やはり、いじめられながら仕事をするのは、体に最も影響がある。
しかも、夜勤などハードな仕事でもあるので自分の体を第一に考え
退職することを選んだ。

実は、精神病院を退院後、家内とは離婚していた。そのため、
当面の間は実家住まいという事も有り、それほど収入が無くてもやっていける。

このようなことがあり、あとはゆっくりアルバイトをしながら、
仕事を探せばいいそう考えていた。

歩くことの重要性

取り敢えず、「働かねば」という気持ちで始めたポスティング
のアルバイトであったが、思わぬ効果があった。

効果というのは、私の双極性障害に対してだ。

毎日、町内を4時間ほど歩き回り、おなかも減り、食べて、寝る。
この一連の規則正しいリズムと、歩くことにより私の脳に血液が
ドンドン回るのだ。血液が回るという事は、脳に酸素が供給される。

双極性障害をはじめとする精神病の多くは脳に適切な酸素が
供給されていないと私は考えた。

それまで、テンションの高くなってしまう日もあればその逆もあったりと、
なかなか調子のよい日はなかったが、歩き回るようになってからというもの、
気持ちが落ち着いた日々が、徐々にではあるが増えて行った。

うつ病の方にも是非ともお勧めしたい。精神病には歩くことは心からお勧めしたい。

徐々に調子を取り戻していった私は、また次のチャレンジをすることとなる。

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双極性障害で精神病院に入院

仕事中に倒れ、救急病院に運ばれた私は取り急ぎ、
その日は病院に泊まっていくことになった。

翌日検査の結果、その病院では施設も専門医もいないという事で
近隣の精神病院に行くことになった。

その精神病院では、検査の結果入院になった。

精神病院に行くこと自体、私としてはショッキングなことであったが、
しかも、入院とはかなり受け入れがたいことであった。

 

双極性障害で閉鎖病棟への入院

私は、自問自答していた。

「これからどうなるのだろう?」

「仕事はどうなるのだろう?」

「家族はどうなるのだろう?」

不安だった。

しかし、大嫌いなパン工場から解放されたという
安堵感もおおきかった。

閉鎖病棟には様々な症状の患者がいた。うつ病の人、
統合失調症の人・・・

閉鎖病棟であるから症状は重めである。

症状が軽めの人は開放病棟に入る。

 

双極性障害の症状

私が、どんな症状だったかというと、

●とにかく、意味もなく元気で活動的
●逆にひどく落ち込む時がある
●多弁(ひっきりなしにしゃべっている)
●誇大妄想(自分はえらい人間だと思い込んでいる)
●被害妄想

などである。
これらの症状が、病的に表れていたという事である。

双極性障害という言葉も病院で初めて聞いた。
何でも以前は躁うつ病と呼んでいたという事だった。

 

病院での一日

病院でのある日の一日は、6時に起床し、7時に朝食。
12時までは自由、12時に昼食、18時に夕食、21時就寝だ。

食後のたびに薬の時間がある。

普通の病院の入院とはあまり変わらないようではあるが、
そこは精神病院である。

窓には鉄格子、ドアというドアにはカギがかけられていて、
職員でないと空けることはできない。

患者の服も、刑務所と同じく、ベルトやひも状にモノが付いた物は
持ち込めない。自殺防止の観点からだ。

入院してみて感じたことは、私が思っていたよりも
明るく快適な環境だという事だった。窓に鉄格子がついているのを除けば。

一日中寝ている人もいるが、大体の人は、テレビを見たり、
雑談したり、読書したり、将棋をしたりして過ごす。

何かをしなくてはいけないという事もなく、ただ安静に過ごし、
薬を飲む。

 

双極性障害の治療方法

双極性障害の治療方法というのは、処方してもらった薬を飲んで、
規則正しい生活をするだけだった。

特に変わった治療をするわけではないので、
入院生活も数日たつと気の合う人が出てきたりして、
かなり快適に過ごせた。

一般の社会と距離を置くことで、病気に一番影響のある
ストレスを軽減していたのかもしれない。

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性格だったのが病的な心配性に

仕事がらの性格

私は、それまでの設計の仕事がら、
ある事柄を深く追及する性格だった。

というのも、私が書く図面の線一つ、数字の1ミリの違いで
延べ300人ほどの人たちの作業に影響があったからである。
作業工程に影響があるという事は、工事の予算要は会社の
売り上げにも影響するという事だ。

いつも仕事をしている時に心がけるのは
「間違いはないか?」
ということである。

要は、心配性なのである。

そんな私だが、もっと自分の時間が欲しいという事で、
設計の仕事を辞めてしまった。

 

パン工場への転職といじめ

そして、次にやった仕事があるパン工場での仕事である。
まったく、畑違いな仕事だったが、自分の時間が持てるのは
結婚したばかりの自分にはありがたかった。

 

が、この職場で私は、執拗な集団職場いじめにあってしまう。

 

自分としては、早く仕事を覚えたくてしょうがなかったため、
とにかく、些細な事でも周りの人に色々なことを聞きまくった。

仕事なのだから早くいろいろ覚えるのに越したことはない。
幸いにして、ほどなく私はパンを仕込む担当にされた。

このことが、職場のリーダー格の人には気に入らなかったらしい。

ある日を境に、執拗ないじめが始まった。

一つ例を挙げれば、ある人にわからないことを質問し、
その通りにやってみると、別の人から
「何をやってるんだ!」
と、まったく違ったやり方を指示される。

そして、今度はそのやり方をやっていると、また別の人から
違うという指示を強い口調で支持される。といった具合だ。

全く納得がいかなかった。はじめはいじめだとは全然わからなかった。

だれの指示が正解なのだろうと甚だ疑問だった私は、休日を利用して
美味しいという噂になっているパン屋にいって実際にパンを購入して
研究したり、図書館へ行って片っ端からパンに関する本を借りてきて
読み漁ったりした。

多分こんなことも、リーダー連中は気に入らなかったであろうが、
元来、負けず嫌いで凝り性の私はそのままパンの研究は
やめはしなかった。

その職場自体はとても居心地が悪く(いじめを受けているのだから
当然だが)いつも、転職したいと考えていたが結婚もし、
子供もできたばかりだったため、いじめを受けても
無理をして働いていた。結局はそれがいけなかったのだろう。

実は、その職場は夜勤も有り、肉体的にもかなりハードであった。

 

元々の頑張り気質、探求心、結婚をして子供ができ、いじめにあっても
転職するわけにはいかない・・・

八方ふさがりの私のストレスは常にMAXであった。

そしてついに私は、訳の分からないことを口走り倒れて
救急車で運ばれることとなる。

躁状態にありがちな、自分のエネルギーを極限まで
使ってしまった状態らしい。

 

到着した病院で医師に言われたことは
「躁状態ですね」
であった。

無題

 

燃え尽きた後の結婚式とその後

今から20数年前、私は高層ビルの外壁を造る会社の
設計部で働いていました。

当時はまだ、バブルの頃の受注残が大分残っていた頃で
それはそれは忙しく働いていました。

深夜までの残業や、徹夜など今の基準で考えれば
超が付くほどブラックな環境で働いていたと言えます。

が、しかし自分が設計した大きな建物が現実になっていく様は
やりがいと言わず何と言おうかというほど、やりがいをもって
仕事をしていました。

 

そんな忙しい日々を送っていた私にも、結婚を約束していた女性がいました。
忙しいさなか結納も済ませ、結婚の日取りを決め、後はハネムーン中、
自分が担当する物件の工事が粛々と進行するように、図面などの
段取りをつけておくだけとなりました。

 

たぶん、結婚式前の4か月くらいは、1日3,4時間の睡眠時間だったと思います。
時には、徹夜も当然のようにありました。

しかし、私は仕事のつらさよりも結婚することへの期待の方が
勝っており、バリバリと仕事をこなしていました。

 

結婚式後のハネムーンも、ハネムーン中の私の担当物件も
何事もなく(当然ハネムーンは楽しかった)進行したのだが、
帰宅して思いがけないことが起こった。

 

いわゆる、燃え尽き症候群です。
人の倍以上仕事をこなし、結果も出してきたつもりだったのですが、
ここに来て気が抜けてしまったというか、結婚する前以上に
仕事に熱が入らなくなってしまったのでした。

 

それまでは、人生=仕事 だったのだが、チョット忙しすぎたのです。

わたしは、もう少し人生を新しく結婚した
家内と楽しみたいと思うようになっていました。

 

この頃はまだ、双極性障害の症状であるうつ状態
躁状態など出ておらず、性格としてはいたって明るい性格であり、
友人も多くいました。

 

ただ、仕事はかなり重要で責任のある事を任されていたことも有り
かなりストレスフルであった事は確かです。

 

結局、もっとストレスもなく自分の時間もとれる仕事へ
転職したのでした。

サラリーマン

プロフィール

名前:中瀬虎之介

性別:男

誕生:1967年生まれ

血液型:A型

はじめまして、中瀬虎之介と申します。

もうすぐ50歳になろうかという
アラフィフおやじです。元々は建築関係で
高層ビルの設計などをしておりました。

その後、いろいろありまして、現在は物流業界で
正社員として働いています。

私は、これまでに双極性障害という病気で
4回精神病院に入院した経験があります。

双極性障害という病気はとても厄介な病気なのですが、
必ず良い方向に向かう病気でもあります。
私の双極性障害の体験が少しでもお役に立てれば幸いです。

 

あなたは、このブログに「躁うつ病」や、「双極性障害」という
キーワードで検索し、たどり着いたのかもしれませんね。

あなた本人が双極性障害なのかもしれませんし、
あなたのたいせつな人が双極性障害を発病したのかもしれませんね。

 

いずれにしても、この病気を何とかしたい!この病気はなんなんだ!
なんでこの俺が!と思っていらっしゃるのかもしれません。

 

このブログでは、よくありがちな「双極性障害」とは?
なんていうような、ちょっと検索すれば出てくるような
百科事典の内容のようなブログを書くつもりはありません。

 

あくまで、「双極性障害」の当事者が体験してきたことを
メインテーマとしておりますので、ご期待に添えるかどうかはわかりませんが、
リアルな側面を書き綴ってゆきたいと思っておりますので、よろしくお願いいたします。

 

かれこれ私の双極性障害歴は20年になろうかという所です。
この病気は本当に恐ろしい病気です。心底そう思います。

何度も何度も、自分の運命をなげきました。

 

「なんでこの俺が・・・」

 

双極性障害の自殺率が高いというのもうなずけます。

ですが、一度きりの人生です。

何度ダウンしようと、また立ち上がればいいじゃないですか!

 

死んだらおしまいです。ENDです。

 

大丈夫です。治りますから。

 

 

 

 

 

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